『和』の鉄人たち

料理の鉄人が放送された初期の頃は、番組そのものの知名度が低かったということと、「料理人同士が対決する」というコンセプトが必要以上に警戒されたため、予定していた挑戦者が収録直前になって番組出演を辞退したり、収録自体をすっぽかしたりするケースも多かったといいます。やがて番組がメジャーになると逆に「挑戦者に選ばれるだけでステータス」になりました。そのため鉄人に対決を挑む出演希望者が多数現れる状態二なりました。

道場六三郎

対戦成績…39戦33勝5敗1分 連勝記録11 通算勝率84.6% 現役時代の勝率は87.1%

『料理の鉄人』の番組が開始当時は銀座「ろくさん亭」主人でした。後に二代目鉄人となる中村孝明や福井幸雄たちのスケジュールが合わないと断られたために、「1年だけ」という条件を呑む形で第2候補だった道場に鉄人起用の打診が来ました。この条件ですがちょうど1年目でアルトア・ルターに敗れた結果、道場の考え方が変わって鉄人をやめるという考えはなくなりました。またスタッフ側もまったく代役を考えていませんでした。

現役時代の対戦成績は27勝3敗1分と勝率9割に迫って、圧倒的な強さを誇りました。番組内の公式見解をはじめ、誰もが認める全鉄人の中の【最強鉄人】でした。

和食の料理人でありながらジャンルにとらわれない料理を生み出して、「日本料理界の異端児」と称されました。「無国籍料理」と称される回もありました。対決中に必ず筆で「お品書き」を書くシーンがお馴染みです。料理・作業の方向性をアシスタントたちに伝えるほか、対戦相手を呑み込もうという意図があったといいます。

フォアグラを平仮名で「ほあぐら」と書いたり特徴的でした。「出汁は1品だけなら持込可」というルールがあったにもかかわらず、常に対決開始時に出汁を作っていました。出汁は鰹節と昆布をふんだんに使っていて福井アナに『命の出汁』と名付けられて、その作成シーンがお品書きを書くシーンと並んで道場出演時の序盤で必ず流されていた。

高齢だったため病のため番組に登場できない時期もありましたが、後半は一時期精彩を欠く戦いを見せることがありました。「素材に国境はない」「素材を成仏させる」などの名言を残しつつ、後継の鉄人に後述の中村を指名して引退しました。

後に道場さんは「(高齢のために体力が衰えて)鯛の頭を包丁で割れなくなった時、引退を決意した」と語っています。石鍋に続いて「名誉鉄人」の座につきました。初期のレギュラー審査員だった高田万由子とはそりが合わなかったため、「あんな小娘にああだこうだ言われたくないね」と番組以外で語っていました。高齢で味付けが濃い目だったせいか、高田だけではなく、鈴木杏樹、広末涼子といった若い女優には厳しい評価をうける場面もありました。

番組出演の傍ら港区赤坂に「ブラッセリー六三郎」(現「ポワソン六三郎」)を開店したほか、2001年には銀座にもう一軒の店「懐食みちば」をオープンしています。

中村孝明

対戦成績…37戦24勝11敗1分1無効試合 連勝記録7 勝率64.8%

番組登場時は「なだ万」理事・料理本部長(総料理長)です。それから後に独立して、1999年10月に「孝明 ARIAKE」オーナーシェフとなりました。

番組では「料理界の諸葛孔明」と称されています。鉄人デビューしたのは1996年3月です。番組が放映していた当時鉄人の中で唯一、オーナーシェフの立場ではありませんでした。料理の鉄人が企画された時点で、鉄人の第1候補でしたが、当時は「わけのわからない番組」で、「なだ万」の看板のこともあって辞退しています。

やがて番組がメジャーになったことから、「なだ万」の会長が道場の後釜に中村を推薦して出演が決定しました。番組上では、番組を支え続けた道場が引退に伴って指名したことになっていますが、実際には道場と中村はゴルフ友達だったので、当時ゴルフ場で会うたびに「2代目をやらないか」と勧められていたといいます。道場とは違った意味で独創的な料理を見せつけました。

先代の道場が持つ圧倒的な強さと独創性とを比較されることも多くあり、また金粉を料理にばら撒くといった独創性がかえって災いして、審査員から「下品だ」と批判されるなど厳しい評価を受ける場面も多くありました。またテーマ食材をなんでも寿司にしてしまう傾向があったので、審査員の岸朝子からは「困ったときの寿司頼み」と皮肉られたこともありました。こうした不安定な傾向があったためなのか、全鉄人の中でも連敗が多くありました。2連敗後の1997年12月26日放送分の神田川俊郎とのアラ対決の前に「もしこの勝負で負けたら引退する」と宣言して、背水の陣で臨みましたが敗れてしまい、唯一の不名誉な3連敗を喫っします。

1998年2月20日放送分の服部幸應との引退試合を最後に「名誉鉄人」として番組を卒業しました。

全鉄人の中で唯一、後方の写真が変更された鉄人です。初期の写真は顔を曲げて、相手を睨み付ける良くない印象だったため、登場の第4回目から柔和な表情の写真に変更されています。常に道場と比較されて「料理の鉄人大全」でも、中村は「当時「なだ万」では『料理の鉄人』のための社内料理会議があって、テーマ食材のヒントが来ると試作品を作って会長に意見を聞いていた」ことを明らかにしています。道場とのおせち対決については「道場六三郎VS中村孝明の戦いではなかった。道場六三郎VS「なだ万」の戦いだった」と語っています。

鉄人を引退後、1999年3月12日放送分で挑戦者として登場して、三代目和の鉄人森本と卵勝負で対戦して勝利しています。名誉鉄人が挑戦者として登場したのはこの回が唯一になっています。

森本正治

対戦成績…26戦17勝8敗1分 連勝記録4 勝率65.3%

2代目中村が引退直後に、1998年2月に「ニューヨークからやって来た鉄人」の触れ込みで番組に登場しました。

番組では「料理界の織田信長」といわれていました。かつては寿司職人でしたが、ニューヨークへ渡って「ソニークラブ」総料理長を経て、鉄人に起用時には「NOBU」総料理長を務めていました。

道場、中村とはまた違った「ニューヨーク仕込みの和食」「地球料理」を見せつけて異彩を放ちました。ただ、道場が鉄人をしていた頃は違っていて、審査員も多様化していたため、評価を厳しくしいました。とくにこの時期には、準レギュラー的審査員を務めていた加納典明とは審査中もしばしば料理への考え方の違いで衝突したりして、苦労させられたようです。

坂井や石鍋が、若手フレンチ集団「クラブ・ミストラル」と対立したように、かつて坂井をタコ対決で倒した関西料理界の重鎮、大田忠道は森本の創作和食を激しく非難して、自身が主催する「太田天地(あめつち)の会」から次々と会員を挑戦者として送り込んで、因縁の戦いを繰り返しました。

2001年11月にフィラデルフィアに「MORIMOTO」を開店して、オーナーシェフを務めています。2005年からアメリカ合衆国で放送されている"Iron Chef America"でも鉄人を務めていて、日本版にも挑戦者として出演して森本と2度にわたり対戦(対戦結果は1勝1敗)したことがあるボビー・フレイと共演しています。

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